症状の下に隠れている“自分”という存在
こんにちは!松浦みづほです。
ちょっと久しぶりの道を通ったら、おにぎりカフェというものがいつのまにか出来ていました。
まだ営業再開されていなかったので入れなかったのですが、歩いたりしているとこんな発見もあるんだな〜!と感じました。
「これが私」って本当は症状かも?
「これが自分だ」と思っていることって実はトラウマの症状で、症状を取ってみると全然違う自分が出てきたり、ということってあるな〜と感じます。
例えば、心配性〜とか、怒りっぽくってすぐに人との関係を壊してしまう〜とかって「症状」なんですよね。
トラウマからの反応で不安が強く出て「心配性」になってしまったり、
トラウマによる恐怖から怒りという反応が出て「怒りっぽい人」になってしまったりする。
そうやって「症状」を自分と思ってしまっていることがあるなと感じます。
でも、トラウマがなくなっていくと「症状」で自分を守る必要がなくなるから、本当の自分というものが見えてくるんですよね。
症状に覆われていない自分ってこんな感じなんだなというのが見えてくると感じます。
「討論できない!」の理由は?
例えば人と会話をしたりするときに、否定されることに対して恐怖の感情があったりすると、人と討論したりするのが苦手だったりします。
相手は自分を否定しているわけではないんですが、会話の内容を否定されたりすると「自分の存在」まで否定されているような気持ちになってしまうので、防衛したい!って感じになってしまう。
防衛したいから、相手を攻撃してしまったり意見をぶつけ合うような雰囲気になると避けてしまったり、話題を変えてしまったりする。
それって、トラウマに引っかかるキーワードや雰囲気に反応して、冷静に話を聞けない!って感じなんですが、「症状」と捉えられていないと、「自分は人と意見をぶつけ合ったりするのが苦手な人」という捉え方になってしまいます。
そういうの苦手なんだよね…という感じ。
でも、トラウマがなくなっていくと相手の話を冷静に聞けるようになっていくんですよね。
会話の中で、何かをそれって違うんじゃない?と言われたりしたって、自分自身を否定されていると思わなくなるので、相手の考えはそうなんだな、と冷静に聞くことができるようになっていく。
そして、自分の考えを冷静に伝えたり、よくわからないことがあったら質問することができるようになっていく。
トラウマの症状があった時は、なんでそんなこと言うんだ!と怒りで返したり、
それ以上話を続けたくなくて、相手の意見を理解したふりをしてその場を丸く収めようとしたりしてしまっていた。
でも、相手の考えが自分と違うなと思ったら「なんでそう思うの?」と聞いたり、「自分はこう思うよ」ということを伝えられるようになっていきます。
そうすると、意見を話し合うのって楽しいな〜と感じられるようになっていったりするんですよね。
そして、今まで自分のことを「人と意見をぶつけ合ったりするのは苦手な人」と思っていたのは、症状からくるものだったと分かっていくんです。
症状が消えていくことで、「人と意見交換するのを楽しめちゃう自分」という本来の自分の姿がくっきりと見えていくんだなと感じています。