自分を犠牲にしても人に与え続けてしまうのは?

こんにちは!松浦みづほです。

自分の気持ちに耳を傾けてみると

自分がそうしたいと思ってしていることって、意外とそうでないこともあったりするよな〜なんて思ったりします。
自分では忘れていたり、気が付かないような隠れた記憶によって、自分の行動が影響を受けていることってあったりすると感じます。

例えば、いつも誰かのことを自分のことより先に考えていて、あの人は優しい人だよねって周りの人みんなが言うような人がいたとします。

その人の頭の中にはいつも「誰か」がいて、
あの人はこうやってあげたら喜ぶかな?
この人にこれを選んであげたら喜ぶかな?って考えています。

相手が喜んでくれるなら、それが自分の幸せで、みんなが喜んでくれるのを見て自分も嬉しいな〜と思っています。

でも、なぜかいつも満たされなくて、苦しい気持ちが消えません。
いつも苦しいのですが、どうして苦しいのかも分からない。

自分のこの生き辛さはどこから来るんだろう?とずっと考えていました。

苦しみは本当の自分の感覚を生きていない時に感じるものです。
じゃあ、今苦しみを感じているのなら、人を優先して喜ばせてあげるって本当に自分がしたいことじゃないのかな?と考えてみたりします。

そこで、相手を喜ばせてあげたいって気持ちをもっと深くまで見てみると、
「これを選んだら喜んでくれるかな?」の奥には、
「これを選んで怒られないかな?」という気持ち。

「こんな風に言ったら楽しんでくれるかな?」の思いの奥には、
「これを言ったら怒られないかな?」というような、
「恐怖」につながる気持ちが、実は隠れていることに気がつくかもしれません。

この気持ちは、自分でも気が付かないくらい上手に隠されていたりするので、遠くの小鳥の声を聞くくらい、耳を澄ませてみないと気が付かないかもしれないなと思います。

だけど、よく耳を澄ませてみると、実は自分が喜ばせたいからしているという気持ちの奥には、「怒られたら怖い」という気持ちが隠れていて、それによって自分の本当の気持ちを抑えてでも相手を喜ばすという選択をしてしまっていた。

もし、大人の自分として考えたら、いやいや、そんな怒られるくらい別に影響しないでしょ〜と思うこともあるかもしれません。

でも、この怒られるかもしれない恐怖って、子供の頃に感じていたものを「今」に引き継いでいたりするので、どうにかしないではいられないんですよね。
自分を犠牲にして、相手の気持ちを考え続けないではいられないくらいの恐怖だったりします。

そして、恐怖のために自分を犠牲にしているんだけど、そのためにまた自分が苦しくなってしまっている。

「これを選んだら怒られないかな?」
「がっかりして機嫌が悪くならないかな?」
という気持ちが心の一番奥の奥にあるということが分かると、
自分は「怒られたらどうしよう」という恐怖から、色々なことを選択していたことがわかってきたりします。

人のことを一番に考えて、「優しい人」を選択していたけど、「間違って怒られる」ことが怖くて、人の気持ちを考えることがやめられなくなっていたんです。

だから、相手が喜んでくれることが自分の喜びと思いつつも、いつも満たされない感覚や、これで大丈夫かな?という感覚が拭えなかった。

その根底にある恐怖が解消されていくと、自分が喜ぶもの、自分が本当に欲しいもの、したいと感じるものを選ぶことができるようになっていきました。

そして、自分が喜ぶものを選択することで、本当に自分を満たしていくことができるようになっていったんです。

誰かに何かをあげたいと思った時は、自分が本当に満たされていないと与えることはできないって言ったりしますよね。

トラウマがあると、そんな風に恐怖から行動してしまって、自分を満たせないまま相手に注ぎ続けるということが起こってしまうなと感じます。
でも、一番根っこにある恐怖が解消されていくと、まず自分を満たすことができるようになっていく。
はじめに自分を大切にして、したいこと、一緒にいたい人を自分の感覚で選んで、満たしていくことができるようになっていくなと感じます。