感情は、「自分」を生きていくことを助けてくれるもの

こんにちは!松浦みづほです。
自分の気持ちや感覚を感じないように、感じないようにとしていると、気がついたときには感じようと思っても分からなかったり、感じているんだけどそれが何の感情なのか名前がつかないってことがあるなと感じます。

私は結構、何も感じなくなりたい、そうすれば楽になれるはずと思い込んでいた時があって、カウンセリングも、はじめはFAP療法を受けたら何も感じない自分になれるんではないかと思ってスタートした所がありました。(しかもしばらく勘違いしながら通いつづけていました。笑)
特に悲しみを感じるというのが難しくて、ショック!となっても、それが体感として上がってこなくて感情が凍りついてる感じというのがあったな〜と思います。(人の感情に共感して泣くということはできるんですが、自分の感情によって涙が出るということがなかったんです。)

今になってみると、自分の感覚が分かっていないと自分の身を守れないってすごく納得だなって感じています。
それは、目の前の人を信頼できるかどうかは自分の感覚が教えてくれることだからです。
根拠がなくてもなんか嫌かも…って感覚は結構大事なこともあり、近づきすぎずに様子を見ていると、なるほどな〜となる時があります。
例え問題にならなかったとしても、嫌かも…となるということは、その人と距離が近すぎるよという自分の感覚からのメッセージなので、不快じゃなくなるまで距離をあけると、またちょうどいい感じになったりするなと感じます。

自分の感情を感じるということは、未消化の感情を自分の中に残さない(トラウマにしない)ためにも、人との距離をそれぞれ気持ち良いものにするためにも大切なことなんですよね。

最近、共依存の本を読んでいました。
子供時代を子供としてすごせなかったことで起こる感情の抑圧がわかりやすく書かれているなと思い、少しの間、引用させていただこうかなと思います。

感情を感じるのは、人間として当たり前のもの

共依存の人は、家族で禁止された感情がなんであっても、自己否定感のために感情を表現することをやめています。
最終的には、何も感じなくなることで自己否定感から逃れます。
感情がなければ傷つくこともないだろうと考えるのです。
「なんで感情を必要とするの?感情は私をトラブルに巻きこむだけ。感じないのが安全」と自分に言い聞かせるのです。
大きな問題は、自分の感情を断ちきったために、喜びや愛情や好意さえも感じないことです。
感情は、人間としてあたりまえのものです。
どんなに一生懸命感じないようにしても、終生持ちつづけるものです。
感情は、たとえ悲しみやにくしみのような一見否定的なものであっても、生きていくうえで選択を手助けするものです。
そばにいるとイライラしたり、おちつかない人を友だちに選ばないでしょう。
その人といっしょだと幸せだと感じるなら、もっといっしょに過ごすことを選ぶでしょう。
もし歴史の授業が不得意でも、科学の実験に興味があれば、たとえ親が歴史を学ぶのがよいとすすめても、化学を専攻したいのだと自分の意見を言うことができるのです。

共依存かもしれない…他人やモノで自分を満たそうとする人たちの/ケイ・マリー・ポーターフィールド著 監訳 水澤都加佐

何を感じるかって本当に100人いたら100通りで、なにが正解だってことはないなと感じます。
そして、その人がそう感じるということがその人の個性であり、魅力なんですよね。