トラウマの記憶が処理されるとき

こんにちは!松浦みづほです。

トラウマや情緒的なネグレクトの問題って体にできた傷のように外からは見えないから、そのことを話したとしてもわかってもらえなかったり、自分に責任があるように言われてしまったり、そのことで更に傷ついてしまったり…ということがあるなと感じます。
トラウマについての知識がなかったりすると、トラウマから起きている症状であっても、努力が足りないからだとか、意識が足りないからだ、という風になってしまうこともあったりするなと感じます。

だからこそ語るときは、否定されずに、安心して話すことができる環境というものが自分を守る上でとても大切なんですよね。

私も、カウンセリウングの中で回復することができたのは、もちろんFAPの効果によるものですが、否定されずに安心感のなかで語ることができたということも大きかったなと思います。

語ることの意味

*安全・安心の中での再体験

トラウマ記憶は、言葉にならない記憶です。
トラウマ体験のその瞬間に、DNAからm-RNAが放出され、たんぱく質が合成され、五感、感情、思考、身体状態などすべてを含む体験がまるごと、記憶のネットワークとして固定されるのです。
これが「冷凍保存」というたとえのより現実に近い姿です。
そして凍ったものがとけていくためには、その「まるごとの記憶」が言葉として語られ、物語記憶という形で整理される必要になります。
ただし、赤ずきんが「おばあさんのお見舞いに行ったらオオカミが大きく口を開けて、私を食べようとしたので、命からがら逃げました」と事実だけ感情を伴わずに話しても、記憶は凍ったままです。
それどころか、無理やり聞き出そうとする人がいたり、やっとの思いで話したのに「そんなこと信じられない」と言われたり「うっかり食べられるのが悪いんでしょ」と非難されたら、それはトラウマの上塗りになってしまいます。批評も非難もされずに、安全と安心の中で語れることが大切です。
相手を信頼して語れたとしたら、徐々に感情が出てくるかもしれません。(中略)ひとりではないと思える状況で感情も交えながら語ることができたら、脳の奥深くにある情動の記憶も揺さぶられ、変化が起き始めます。
物語記憶になったときには、具体的な五感や感情が消化されています。これを「トラウマの処理」ということもあります。

赤ずきんとオオカミのトラウマ:ケア/白川美也子著